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ひとりの元機関士が支えてきた小さな第3セクター鉄道の終焉・・・・・・2008年春廃止予定の三木鉄道

 ご存じの方も多いと思いますが、JR加古川線から分岐していた旧国鉄三木線の廃止転換に伴って誕生した第3セクター鉄道三木鉄道が、三木市の現市長の公約に則る形で、来年(2008年)3月いっぱいで廃止されることが既に決定しています。

 

 山陽本線の加古川と福知山線の谷川とを結ぶ加古川線にはかつて3つの枝線(三木線・北条線鍛冶屋線)が存在していましたが、そのうちの鍛冶屋線が先に廃止となり、残った三木・北条両線は共に第3セクター鉄道に転換され、今日に至っています。

 

 ちなみに私自身、この加古川線から分岐していた3つの線のうち、鍛冶屋線については廃止直前に1往復だけ乗車した記憶があるのですが、他の2路線については一度も乗ったことがありません。

 

 

 ま、それはともかくとして、来年春廃止予定の三木鉄道に絡んで、『産経イザ!』に、兵庫県淡路島出身で国鉄(JR)の機関士を約40年間、その後JR子会社を経て三木鉄道に転身した一人の鉄道マンのあゆみが、記事2本にわたって綴られているのを見つけましたので、以下にて一度に紹介しますと・・・

 

【さよなら三木鉄道】変わらない駅舎
《『産経イザ!』2007年10月03日付け掲載記事》

 夕暮れ。家路を急ぐ人たちで、三木駅はかつてのにぎわいを取り戻したかのように見える。
 足早に近づく夕闇に、瓦屋根と白いペンキがところどころはげた木の柱が浮かぶ。駅舎からは長い年月、風雨に耐えてきた風格が漂う。三木-厄神が全線開通したのは、90年前。長い歴史の中で鉄道車両は幾度となく更新されたが、駅舎は一度も建て替えられず、当時の面影をとどめている。
 その駅から東の方を指差して、「今は家が建つあの辺りまで、昔は線路がのびていたんですよ」と三木鉄道の実質的な総責任者、斎藤浩取締役鉄道部長(67)。待避線があったのだという。
 斎藤さんは旧国鉄・JRの機関区の運転部門で培った約40年のキャリアを買われ、JR貨物を退職後に三木鉄道に入社した。「三セクは市が経営しとる鉄道やから金のことは心配せんでええ」。JR仲間からそう言われ、7年前、ここに来た。
 
■鉄道マンとしてのエピローグ
 斎藤さんは淡路島(兵庫県)生まれ。淡路にもかつて洲本-福良(23・4キロ)に鉄道があったが、昭和41年に廃線となった。斎藤さんも乗ったことがあるが、「鉄道についての専門的な知識もなく、特別な思いもなかった」。それが高校卒業後の33年、国鉄に入ったのは、「給料は安いけど老後は安心」と親族に勧められたからだ。
 
 3年後、明石駅で駅員をしていた斎藤さんに転機が訪れる。
 
 「機関士募集」
 
 鉄道マンの花形であり夢だった機関士の門戸は、高校の電気科や機械科出身の職員に限られていた。が、当時は東京オリンピックを3年後に控えた高度経済成長のまっただ中。鉄道輸送も最盛期で、普通科卒の斎藤さんにもチャンスが巡ってきたのだ。
 試験に合格し、3年間機関助士を務めたのち、神戸市須磨区の「鷹取機関区」で正式な機関士となったが、「機械の専門的なことが何一つ分からず、機関士になってからが大変だった」。
 機関区は数十台の巨大な電気機関車と熟練の機関士が行き交う、まさに鋼鉄の城。「先輩から機関士とは何か、客車、貨車を引っ張るとはどういうことなのか、じっくりたたき込まれた」と振り返る。
 そんな職場で経験を積み重ねてきた斎藤さんの目には「今は一人前の運転士になるまでの期間が短すぎる」と映る。
 昭和末期、鉄道にも民営化の波が押し寄せた。やがて国鉄からJRへ。斎藤さんは大阪府吹田市にあるJR貨物の吹田機関区での首席助役を最後に子会社へ出向。平成12年に退職した。
 
 再就職を考えていたとき、JR時代の上司から「ワシももう70歳やから後任としてこい」と、三木鉄道へ来るよう誘われた。周囲からは「金のことは心配せんでええ」と言われた。
 ローカル線でゆっくりと鉄道マンとしてのエピローグを迎える-。しかし現実は違っていた。「だまされたんですよ」。斎藤さんは苦笑した。(文・岡嶋大城)

  ↓ ↓ ↓
【さよなら三木鉄道】廃止するのは簡単やけど
《『産経イザ!』2007年10月05日付け掲載記事》

 90年にも及ぶ歴史を見守り続けてきた三木駅の駅舎。所々に張り付けられたプレートに書かれた「大正6年1月23日」がそれを証明している。
 その駅舎とは不釣り合いな、コンクリート製のこぢんまりとした平屋の建物が隣に建っている。三木鉄道の本社屋だ。旧国鉄時代、手小荷物扱所として使われていたという。
 扉を開けると、約60平方メートルのフロアでは、数人の社員が事務机に向かっていた。その奥に、7年前に同鉄道に来た斎藤浩取締役鉄道部長(67)の姿があった。同じ鉄道会社での勤務でも、旧国鉄・JR時代とは仕事の内容は180度違う日々が待っていた。
 鉄道マンから鉄道経営者へ。それでも鉄道への愛着は変わらない。半年後に迫った廃線に、「鉄道を廃止するのは簡単。でもホンマになくしてしもてええんか」。田園風景の中、真っすぐに延びる線路を見つめ語気を強めた。
 
≪「時代遅れ」の声にも、鉄道愛し≫
 えっ、株主総会?。
 平成12年、三木鉄道に入社したとき、元機関士の斎藤さんには会社経営について何一つ知識がなかった。「これまでは運転のことしかわからんかった。でも三木に来てからは金のこと、人のことがメーン」
 えっ、パソコン?。
 初めて触れるキーボード。先代、先々代の部長も悪戦苦闘したと聞き、それを励みにした。「こういうことをしっかりしとかんことには鉄道経営者はやっていけない」。還暦を迎えてから、表計算とワープロのソフトの使い方を一から覚えた。
 
 昭和60年にスタートした三木鉄道は、平成14年までに約1億円の車両を3台購入した。が、客足は年々減少。市から毎年補助金を受けているものの経営はなかなか好転しなかった。「3月31日に金がなくなったらどないしよう。ホンマに金はあるんか」。決算期は常に危機感を抱いた。経理担当者と相談し、常に2~3年先の財務状況を試算していたという。「おかげで難しい書類の読み方がわかった」と斎藤さん。
 第3セクターの三木鉄道は代々、三木市長が社長。加古川市の代表や商工会議所の会頭らが役員を務める。ところが、昨年の三木市長選で当選した薮本吉秀・新市長の公約は、財政再建のため「三木鉄道廃止」。事態は大きく変わった。
 今年3月、市議会は三木鉄道廃止案を可決。アンケート調査で70%の市民が廃止に賛成した。「鉄道はもう時代遅れ。必要ない」。そんな声が市民からも聞こえるように。三木駅近くの女性が「お客の減ってる三木鉄道を何で守ろうとしてはるんやろ」とポツリと言った。
 「これでもかというくらいたたかれた」と斎藤さん。16人の従業員のほとんどは市外に居住。鉄道は三木市以外の出身者によって支えられているのが現状だ。
 「私は鉄道が体に染み付いてしもた。車掌の体験会をすると子供たちは喜んでくれる。ええ味と魅力があるんやけど」。資料を整理しながら斎藤さんは静かに話した。(文・岡嶋 大城)

 

 千載一遇のチャンスを生かして駅員から機関士の世界に飛び込んでから約40年、その後三木鉄道で鉄道経営者として約7年間を過ごすことになるわけですが、転身の度に立ち憚る壁を一つ一つ乗り越えていっていることがおわかりになるかと思います。
 特に三木鉄道に転身した平成12年(2000年)以降はまさに三木鉄道と共に歩んでいるという印象さえ抱いてしまいますネ。

 にもかかわらず、赤字続きの三木鉄道を廃止して財政再建を目指すと訴えていた現市長の当選により現実のものとなった三木鉄道の廃止・・・根っからの鉄道マンはその現実を淡々と受け止めているかのようでした。

 

 

 さて、先の『イザ!』の記事では三木鉄道の廃止を責任者として見届けることとなった一人の鉄道マンの半生が紹介されていましたが、彼がまだ国鉄の機関士だった昭和後期、三木鉄道、つまり旧国鉄三木線はどうだったのか。

 それを示すものがネット上にて公開されていました。

 

 まず昭和50年頃の加古川線とそこから分岐していたローカル線たちについて綴っているのは「加古川線の旅」というブログ内記事。

 当時は北方向に伸びる加古川線と共に南方向に延びる高砂線も健在で、それぞれののりばとなっていたホームには山陽本線からの乗り換え客のための独自の売店付き待合室を備え、駅そばや駅弁の販売が行われていた他、加古川駅の西側には、加古川の土手と挟まれる形で、当時加古川線を走っていた気動車たちがねぐらとしていた加古川気動車区が存在していました。

 この記事自体は加古川から三木線との分岐駅・厄神、北条線との分岐駅で神戸電鉄乗換駅でもある粟生を通って、鍛冶屋線との分岐駅だった野村(現在の西脇市)から鍛冶屋線を一駅分だけ走って西脇に至る加古川線の一部を辿ったものなのですが、当時、三木線には加古川から1時間あたり1本の直通列車が走っていた他、粟生から分岐する北条線へも加古川から1日4本の直通列車が、更に野村から分岐する鍛冶屋線へは加古川からの列車の大半が乗り入れていた他、加古川線終点駅の谷川からも野村での方向転換を経て西脇まで乗り入れてくる列車も数本存在していたのだそうです《ちなみに当時、地元民の間では、加古川線は加古川から野村を経て西脇に至る鉄道との認識があったそうです》。

 そして、加古川線から分岐していた3枝線のうち、三木・北条両線が第1次特定地方交通線に、鍛冶屋線が第3次特定地方交通線にそれぞれ指定、しかし実際は加古川からの直通列車が多かった西脇駅を擁する第3次指定の鍛冶屋線が廃止され、第1次指定の三木・北条両線は共に第3セクター鉄道への転換という結果となったわけですが、これについて、第3次指定された鍛冶屋線ですら経営が成り立たないと判断されたのに第1次指定の三木・北条両線が成り立つはずがない、第3セクターに転換されたもののよくぞ今日まで走っているものだ、と語り、来年春に三木鉄道が廃止されるのはやむを得ないという認識を示しているようでした。

 

 次に、昭和60年(1985年)当時の姿を捉えているのは「冷改施工後のデ1070形1076と国鉄北条・三木線の最終日〔1985年(昭和60年)3月の記録〕」。

 こちらはどうやら三木・北条両線の国鉄線としての営業最終日(1985年3月31日)当日の模様等をとらえているようですが、国鉄線だった頃、加古川から三木線に直通乗り入れしていたことを示しているかのように掲出されていた「三木←→加古川」のサボから始まり、神戸電鉄湊川駅構内に張り出された北条線廃止に伴う神戸電鉄線からの連絡定期に関する告知文、その北条線と5年後(1990年3月31日)に廃止・バス転換された鍛冶屋線との連絡運賃も掲載されていた連絡普通旅客運賃表・・・在りし日の三木・北条・鍛冶屋各線の姿が偲ばれるところです。
 併せて、北条線廃止に伴うのりば案内板掛け替えに勤しんでいる一方でのんびりとした雰囲気に包まれていたであろう粟生駅北条線のりば、三木線の終点・三木駅に停車中の国鉄ディーゼルカーと、その片隅に休んでいたであろう、翌日から運転されることになる新生三木鉄道のレールバス・・・時代の移り変わりというものを意識させられますネ。

 

 そして最後は現在の三木鉄道の乗車記「三木鉄道に乗る」で、こちらは約4年前〔2003年12月27日(土)〕にJR厄神駅から三木駅にかけて乗車した際の模様が綴られていますが、三木線の前身である「播州鉄道」(大正12年からは「播丹鉄道」の一路線に)が大正6年に全通させたこと、そして戦時中だった昭和18年の三木線国有化を経て昭和27年の神戸電鉄粟生線全通までは神戸方面に向かう足として地元民に重宝されていたこと等も、まるでその時代に思いを馳せるがごとく、綴られていて、今の三木鉄道の姿を眺めながら神戸電鉄が粟生まで通じていなかった頃の三木線全盛時代にタイムスリップしてしまいそうな気分になってしまいマス《ちょっと大袈裟!?》。

 第3セクターに転換後物理的にも断ち切られてしまった加古川線につながる鉄路、その反面、国鉄時代を彷彿とさせてくれる古い型の駅名標、そして国鉄時代から変わらずに今日まで生き続けてきている三木駅駅舎とそこで今(訪問時点)も売られていたという三木鉄道開業記念きっぷ・・・
 第3セクターに転換する際に於いても、せめて加古川線との直通運転は残しておくべきだったかな、と思わずにいられないのは私だけでしょうか。

 

 

 さて、今の三木鉄道の乗車記を一つとりあげましたので、もう一つ、同じくその三木鉄道の乗車記を…。

 今年4月に三木鉄道に乗ったという人が写真を交えて綴っている「来春廃線?三木鉄道」。年1回の航空身体検査を受けがてら、神戸から山陽本線、加古川線、三木線、そして神戸電鉄粟生線を通って神戸に戻るというルートで小旅行を楽しんだときの模様が綴られていますが、時速40キロ程度でゆるゆると走る姿、そして途中下車するという乗客と運転士とのやりとり等にのどかさを感じる一方で、道路の整備状況から廃止はやむを得ないこと、そして厄神ではなく西明石につながっていれば(というか山陽本線に直接つながれば、ということか…)、との悔恨の念も綴られ、概ねは廃止をやむを得ないことと受け止めているかのような印象を受けました。

 

 そして最後に一つ、三木鉄道廃止に際して少し気になる話を・・・。

 来年春に廃止予定の三木鉄道を巡り、廃止となることで地元住民の負担が増える可能性があることを神戸新聞Web版に昨年2月に掲載された「廃止方針 三木鉄道への貸付金 土地売却で回収可能?」が報じています。

 廃止後に売却されることとなる三木鉄道三木駅等の三木鉄道関連の鉄道用地について、周辺住民の高齢化が進んでいることや交通の利便性がよくないこと等の理由から市長が表明している三木鉄道への貸付金の回収を土地の売却益だけでまかなうのは無理ではないか、との地元不動産業者のコメント等を伝えています。

 このことに関して、この神戸新聞記事を紹介した「鉄道資産譲渡の意味」というブログ内記事は、三木線から第3セクターの三木鉄道に転換される際に行っているような国鉄の鉄道資産の無償譲渡は、地域の足を担う役割が国から地方に移る上に於いて、何がしかの地方への支援策と積極的に解釈すべきではないか、と述べた上で、その神戸新聞掲載記事が”返還条項”ととられかねないと伝えている「契約は鉄道事業を行う間において有効」という文言については、地域の公共交通を担うという、国が結果的に果たしえなかった役割を、地方が永続的に受け継いでいくという意味が込められているように思えてならない、と述べ、第3セクター鉄道の経営を引き受けることになる地元自治体に対する国鉄側からの応援の意もあったのではないかとの考えを示しているかのような印象を受けました《応援といえば、同じブログサイトに掲載の「三木鉄道存続の危機と、公共交通軽視政策への不安」では、財政再建の必要性に理解を示す一方で、そのために地方を走る鉄道を赤字だからといって安易に切り捨てることには懸念を示し、公共交通活性化施策による経営の好転や都市の交通インフラとして機能させることを目指した政策をとるべきではないか、とも訴えています》。

 とはいえ、三木鉄道沿線地域(播磨地域)の地価は、兵庫県のWebサイト等をざっと見た感じでは、どうやら下がり気味の様子で(尤も今年に入ってから下落幅は縮まっているように見受けられますが…)、やはり三木鉄道廃止に伴う地元負担の増加は避けられない情勢と言うべきなのかもしれません《残念ですが…》。

 

 

 駅員から転身して約40年間機関士生活を続けてきた男が再び転身して約7年間実質的に支え続けてきた、そして地元民にも愛され続けてきた三木鉄道は、来年の春、90年の歴史に幕を下ろすことになります。

 

 

P.S.
 三木鉄道三木駅と神戸電鉄粟生線の三木駅との位置関係に関する話や両者の間を徒歩で行き来する話等をネット上でもしばしば見聞きしますので、マピオン(Mapion)の地図データを使って2つの「三木駅」とその間の道等を示した地図をアップしておきました

 ご旅行のお供等にお役立て頂ければ幸いです…

 

 

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