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ベーゼンドルファーの経営権を取得したヤマハの今の姿・・・名門ピアノ、ベーゼンドルファーの話(3)

【←前回掲載記事へ】

 世界ピアノ御三家の一つに列せられているオーストリアのピアノメーカー、ベーゼンドルファーの身売り(”倒産”と伝えている人もあり)の報道を受けて書いてきました『名門ピアノ、ベーゼンドルファーの話』シリーズ(というよりは、いつの間にかシリーズとなってしまったという感じ…)ですが、前回まではベーゼンドルファーに軸足を置く形で書いてきました。

 

 それまでベーゼンドルファーの経営権を保有してきたオーストリアの銀行BAWAG P.S.K.(オーストリア労働経済郵便銀行)が経営難に陥っていたことから売約先を探していましたが、結果として経営権を取得したのは、ベーゼンドルファーやスタインウェイ等と共に著名な国際音楽コンクール等にピアノを提供してきている日本の楽器製造大手ヤマハでした。

 

 そのヤマハの今の姿とは・・・ヤマハのピアノ調律師、そして歴代のヤマハ社長(前社長と現社長)の姿を通して、関連の新聞記事等を使って、見ていきたいと思います。

 

 

 まずは、今回ベーゼンドルファーの経営権を取得したヤマハが生んだ、「キャンセル魔」ミケランジェリをも唸らせた伝説のピアノ調律師、村上輝久のピアノ調律師生活を綴った記事が産経新聞の『正論』に掲載されていますので、長くなりますが、なかなか興味深い内容となっていますので、敢えて紹介しておきます。

 

師の相貌 ~ピアノ調律師 村上輝久
《産経新聞社『正論』2002年2月号(?)付け掲載記事》
舞台裏の魔術師
 完全に練り上げたものしか演奏しない姿勢と度重なる演奏会のキャンセルで、イタリアのピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリは、完全主義者、奇才などと称される。このピアニストの専属調律師として、四年にわたって演奏旅行に同行した日本人のいることを最近知り、ぜひお会いしたいと思った。
 その人、村上輝久さんは旧制中学を中退後、国鉄に就職するものの、子供のころ自宅にやってきた調律師の姿が忘れられず、昭和二十三年に国鉄を辞めてヤマハ(当時日本楽器製造)に入社、調律師の道を歩み始めたという。
 
 村上さんにとって幸運だったのは、調律師としての充実期に、スタインウェイを超える世界一のコンサートグランドピアノをつくるという、川上源一社長(当時)の夢を実現するためのプロジェクトに巻き込まれたことである。
 「昭和四十年の三月、ミケランジェリが初めて日本にやってきました。それもスタインウェイのピアノと専属調律師を連れてね。演奏会で彼はスカルラッティのソナタを弾いたのですが、そのピアノの音を聴いて震えがきてしまったんです。これまでそんな音は聴いたこともない。イタリアン・バロックの音としか表現のしようがない音なんです。そしてベートーベンのソナタを弾けば、それは紛れもなくドイツ音楽の音がするんですよ」
 興奮した村上さんは、演奏会終了後、音の変化の秘密を聞きたいと、ステージの裏で専属調律師のチェザレー・アウグスト・タローネを探したが、この時は会うことはできなかった。
 演奏会の興奮冷めやらぬ翌日、村上さんは川上社長に「ミケランジェリの演奏を聞いてみてください。ヤマハのピアノはまだまだ改良の余地があります」と進言するのである。
 川上社長は、村上さんが苦心して入手したチケットを手に、ミケランジェリの演奏会に足を運ぶ。その感想はだれにも語らなかったが、心に期するものがあった。そして同年十一月に、コンサートグランドピアノの開発アドバイザーとして、一カ月の契約でタローネを招聘する。
 
 翌年の二月、ドイツのフランクフルトへ商用で出掛けた川上社長は、その足でイタリアのタローネの元を訪ね、ピアノの研究をさせるため、社員を一人預かってほしいと頼み込んだのだ。
 村上さんにヨーロッパ行きの命が下ったのは四十一年二月のことであった。行き先はもちろん、ミラノのタローネの元だ。
 「タローネの家に着いて二十日目にミケランジェリを紹介してもらいました。ミケランジェリは会うなり手帳を開きながら、一週間後に自宅のピアノを調律してほしいと言うんですよ」
 一週間ミケランジェリの家に泊まり込んで、七台のピアノを調律し、タローネの家に戻ると、ミケランジェリから電報が送られてきた。その内容は、演奏旅行に専属調律師として同行してほしいというものだった。ここから四年にわたる専属調律師としての生活が始まる。
 「なぜ、ミケランジェリが私を選んだのか?それは私の口数が少なかったからじゃないでしょうか(笑い)」
 
 完全主義者の要求に誠実に黙々と応える村上さんの仕事振りは、まもなくヨーロッパの音楽関係者の間に広まり、翌年にはフランスのマントン音楽祭の公式調律師として招聘される。ここで村上さんはミケランジェリとの付き合いで培った技術をフルに使い、リヒテル、ギレリス、ケンプといった巨匠たちの繊細な要求に応えていった。その仕事振りをドイツの日刊紙「ディ・ヴェルト」はこう報じた。
 「このフェスティバルの主役は舞台の裏にいた。この主役の名前は、テルヒサ・ムラカミ。職業はピアノ調律師。彼の手にかかると、どんなピアノもストラディバリウスになる」
 
 ヤマハの社員でもある村上さんは、巨匠たちの要求にその場で応えるだけではなく、それを逐次リポートにまとめ会社に送っていた。ヤマハの技術者たちはその貴重な報告をもとに、コンサートグランドピアノの改良を続けた。ヤマハの性能は徐々に進化を遂げ、川上社長の夢は現実のものになろうとしていた。
 そのヤマハに目をつけたのが、マントン音楽祭で村上さんの技術と人柄に惚れ込んだリヒテルであった。彼は世界各地の演奏会でヤマハのコンサートグランドピアノを使用し、改良すべきと感じた点を村上さんにフィードバックするようになる。この関係は、一九九七年にリヒテルが亡くなるまで続く。
 「私は調律師になってから絶えず『いい音ってなんだろう』と自問自答し、その探求を続けてきました。結論めいたことを言えば、ミケランジェリやリヒテルといった素晴らしいピアニストが求めるように、ピアノを最高の状態にできたとき、彼らの弾く音が私にとっての『いい音』なんですよ」
 もうこの世にはいない二人の巨匠の音を確かめるように、村上さんは目を閉じた。(文本誌・桑原聡)

 

 そういえば、ミケランジェリが彼の親友であるポルトガルのピアニスト、セケイラ・コスタに村上輝久のピアノ調律技術をプレゼントしたという逸話を何かの本で目にしたことを思い出しました《→『ベネデッティ=ミケランジェリ,アルトゥーロ』》。

 

 また、村上輝久は5年前(2002年)に母校・磐田南高校(静岡県磐田市)の2人の生徒相手にインタビューに応じたことがあり、その時の模様が地方紙・中日新聞に記事となって掲載されています《なお村上輝久自身は、磐田南高校の前身である旧制・静岡県立見付中学校だった頃に卒業しています》。

 

第4部 OBと語る 村上 輝久さん(ピアノ調律師 中21回) あせらず一つ一つ実行
《中日新聞Web板・2002年11月7日付け掲載記事》
 見付中二十一回の同窓生、村上輝久さん(73)=浜松市湖東町=は、欧米人に「東洋の魔術師」とまで呼ばれたピアノ調律師。リヒテルやミケランジェリら、世界の巨匠の演奏を支えてきた村上さんに、音の魅力や芸術について話してもらった。聞き手はいずれも二年生で、ピアノで進学を目指す今福沙耶香さんと演劇の演出家を志す鈴木結(ゆう)さん。
 
-なぜ、調律師になったのですか(今福)。
 「音が好きだったのと、機械いじりが好きだったから。家に調律師が来て、ピアノの中を見せてもらって『へえー』と興味を持った。たまたま募集があって、応募しました。専門にピアノや音楽を勉強したわけではないですよ」
-ピアノを演奏するときは指揮者になったつもりで、十本の指という演奏家を指揮するよう指導されました(今福)。
 「その通り。いい先生ですね。あと、ピアノの名手が言うには、脱力が大切だと。力を抜いて演奏をすることだね。演劇でも同じでしょう」
-私たちも脱力する訓練はしています。今まで聞いてきた音で、一番いい音って何ですか(鈴木)。
 「私にとっていい音と演奏家にとっていい音とは違うけど、演奏がうまく会場に響いて、聴衆が喜んでいるのが分かるときは、最高にいい音。でもそれは難しい。調律で言えば、同じ演奏家が弾くとしても、ベートーベンを弾く時とモーツァルトを弾く時とでは、調律を変えないといけない。曲や作曲家の背景も勉強していないといけないし」
-今は自分が書いた脚本で演出をしていますが、古典も勉強するべきですよね(鈴木)。
 「そう。ジャズピアニストでも、クラシックを弾かせると非常にうまい。まだ若いのだから、全部を一度に勉強しようとしなくていい。今一番やりたいことを一生懸命学べば、他のことも自然とできるようになりますよ。あせらないで一つ一つ行動に移すことが大切ですね。演劇の世界も音楽の世界も同じ。こういう話ができるのはうれしいね。将来が楽しみです」
 
磐南を語る 3年 埋田 綾乃さん
 この磐南に入学してから二年半がたちます。この間に得たものはいろいろあるけど、やっぱり一番初めに思い出すことといえば、友だちとのやりとりです。いつでも言えることだけど自分に合う人、合わない人がいる中で、自分を見直すことも大事に思えるようになりました。結構自分では成長したと思っているので、この磐南でこれからもできる限り成長していけたらと思います。私にとってもっと大きくなれる場所が、この磐南です。

 

 当時このインタビューで聞き手を務めていた2人の高校生は既に卒業してそれぞれの道を歩み出していることと思いますが、最後には、一度に全てを勉強しなくとも、あせらず一つ一つ行動に移すことが大切、と話す村上輝久、脱力の話といい、昔ピアノを触ったことのある私自身にも響きそうな話をしてくれていますネ。

 

 

 次にやはりヤマハの調律師2人について、読売新聞から、続けて紹介していきます。

 一人目は昨年(2006年)の11月12日から27日まで静岡県浜松市で開かれた第6回浜松国際ピアノコンクールでピアノ調律を担当した鈴木俊郎。
 その当時は楽器事業本部東京アーティスト企画室担当課長を務めていました。

 

私もひと役 国際ピアノコンクール ~(2)調律・鈴木俊郎さん
《読売新聞Web板(YOMIURI ONLINE)・2006年11月上旬頃掲載記事(掲載日付記載無し)》
使命「ベストな状態」
 コンクール期間中3人でピアノの調整にあたるヤマハのリーダー。楽器事業本部東京アーティスト企画室担当課長の鈴木俊郎さん(50)は「出場者はギリギリの予算で各国から来る。練習も一生懸命だ。ベストな状態でのピアノ提供が使命です」と気を引き締める。
 
 調律師になるため、ヤマハピアノテクニカルアカデミーで学び、1982年に入社。東京支店のピアノ技術課専門家担当に配属され、「音楽大学の教授やピアニストの自宅へ行ってもまれた」。
 87年に本社へ異動。コンサートチューナーとして88年、シドニー国際コンクールへ派遣された。「飛行機も初めて。分からないことだらけだった。でも、弾いてくれた演奏者が4位になって手応えを感じた」という。
 その後、チャイコフスキー、ショパン、ルービンシュタインなど主要コンクールを受け持ち、浜松は初回からかかわる。
 
 演奏会での調律ならピアニストの好みに合わせるが、コンクールでは標準的な調整になる。「良い楽器に良い技術の提供がある。標準的でも力のある出場者の技量が引き出せる」。それよりも、コンクールでは、集中的に一気に弾かれ、予選が進むに連れて、大型で様々な曲が演奏されるだけに「ピアノをベストな状態に保つのが難しく、技術力の差がはっきり出る」。
 半月間、調整時間は夜中から朝にかけて、毎日3時間だ。「昼間は演奏を聴きながら夜の調整を考え、夜中に作業する。過酷で体力の配分に気を使います」
 疲れが思いがけないようなミスを引き起こす。海外のあるコンクールで、調整道具を内部に置き忘れ、出場者が弾き直すハプニングを目の当たりにした。「本当に人ごとでない」と表情は真剣だ。
 今回は開幕直前に大阪のコンサートで調整を済ませて浜松入りする。「前回の本選はすべてヤマハのピアノだった。名誉なことです」と話す一方、欧米のピアノとの差を意識し、「まだまだ歴史を積み上げないと」と力を込める。
 
ピアノ選び
 予選会場のアクトシティ浜松中ホールに、ベーゼンドルファー、スタインウェイ、カワイ、ヤマハの4台を並べ、1人10分ずつ弾き比べて、いすの高さとともに登録する。その後に、微妙なタッチなどを各社の調律師と打ち合わせできる。これまでの1位は、リャードフ(ロシア)がカワイを、ガブリリュク(ウクライナ)らがヤマハを使った。

 

 次は社内に於ける現役最長老(2006年8月現在)の調律師・程内(ほどうち)隆哉。
 あのアンドレ・ワッツマルタ・アルゲリッチからも指名されたことがある等、世界的ピアニストからの評価も高い。

 

達人図鑑 ~数ミリの調整、世界うならす音感
《読売新聞Web板(YOMIURI ONLINE)・2006年8月15日付け掲載記事》
 ヤマハのコンサートグランドピアノは世界的なピアニストたちに愛され、国際コンクールでも使われる。88の鍵盤(けんばん)と約240本の弦からなるこの「名器」を最高の状態に整える調律師の第1人者だ。
 
 奏者と2時間話し合うこともあれば、会場の音の響き、リハーサル中の表情や指の動きから、奏者の求める「音」を読みとることもある。
 さらには、鍵盤の動きを弦に伝えるハンマーのフェルトを針で数ミリ突いたり、ピアノの位置を2、3センチ客席に寄せたり。微妙な調整で、奏者すら言葉にできない違和感を取り除き、驚かれることも珍しくない。アンドレ・ワッツ氏やマルタ・アルゲリッチ氏ら著名なピアニストの指名も多く、「芸術的な耳を持つ」と評される。
 
 父親も調律師。子供時代はピアノ工場の敷地で遊び、父の仕事をみて育った。学生時代はオーケストラのトランペット奏者として活躍した。
 入社後の米国駐在時代、ワッツ氏の専属調律師として5年間、世界中の会場を回った。異国での日々は、音感だけでなく、観察眼や意思疎通能力の大切さも学ばせてくれた。現在は、次世代のコンサートピアノの開発にかかわる唯一の調律師でもある。
 現役調律師の最年長として後進を育てる立場だが、「調律師はピアニストに鍛えられて育つ」が持論だ。
 
<メモ>コンサートホールのピアノ
 金属や木製の部品が多いピアノの音は、温度や湿度の影響を受ける。ライトによる温度上昇や、雨にぬれた客の服による湿度の上昇も考えて調律するという。温・湿度計を常に持ち、天気予報を確認することも欠かせない。

 

 「調律師はピアニストに鍛えられて育つ」・・・つまり1回でも多く現場に立つことで育つ、ということでしょうか《ちょっと違うかな…》。
 そういえば、これはピアノ調律師ではありませんが、大阪フィルハーモニー交響楽団を立ち上げた関西楽壇の大御所的存在だった指揮者、故・朝比奈隆は、自身が音楽の専門教育を受けていなかった(音楽大学等で学んでいない)ことを踏まえ、人より1年・1日でも長く生きて1回でも多く指揮台に立つ、それが一番いい方法だ、との朝比奈の恩師でロシア人指揮者だったエマニュエル・メッテルの言葉を、生前NHK放映のテレビ番組の中で語っていたことを思い出しました。

 教科書等のテキストで一通り学べたとしても最終的には自身が経験し、その中から学んでいくことが上達への早道(というか王道)ということなんでしょうネ。

 また、1人目として紹介した調律師・鈴木俊郎の場合、コンクール期間中はそれこそかのナポレオン並みの睡眠を強いられる格好となるわけですが、一方でステージが進んで大曲の演奏が増えてくると益々調律の技術が問われてくることに・・・体力も重要な要素ということでしょうね。
 で、その鈴木調律師の紹介のところで「海外のあるコンクールで、調整道具を内部に置き忘れ、出場者が弾き直すハプニングを目の当たりにした」とのくだりが見えますが、これってまさか2005年に行われたショパン国際ピアノコンクールの本選に於ける「調律器具置き忘れ事件」のことを指すのではないか・・・

 

【噴水台】ショパンコンクール
《韓国『中央日報』日本語版Web・2005.10.24付け掲載記事》
 現存するピアニストのうち出演料だけで見るとマウリツィオ・ポリーニが断トツだ。 1回の演奏で10万ドルのギャランティーが保証される。彼は1960年のショパンコンクールで、全員一致で優勝した人物だ。ルビンシュタインとホルショフスキは「審査委員の自分が果たしてこれほどの演奏ができるだろうか」と驚嘆した。1975年の優勝者はクリスティアン・ツィマーマン。2000年に優勝した中国のユンディ・リが彼を訪ね、弟子入りを懇請した。しかしツィマーマンは「あなたに教えることはない」と丁重に断った。
 5年ごとに1回ずつ開かれるショパンコンクールは世界最高のピアニスト登竜門だ。力や派閥で汚れた他のコンクールとは次元が違う。期待に達していなければ、いっそのこと受賞者を出さない。 独歩的な地位を守り、世界音楽界の流れを主導しているのもこのためだ。 音に集中するよう、楽譜なく暗譜で演奏するのが不文律だ。
 
 こうしたショパンコンクールも95年には弊害があった。
 当時、日本は熱狂のるつぼだった。宮谷理香が5位に入ったのだ。しかし宮谷理香が事前に公式伴奏オーケストラのワルシャワ・フィルハーモニックと練習した事実が明らかになり、高い代価を支払った。世界音楽界は日本のロビー波紋に驚愕した。この時も10年連続で優勝者を出さず、なんとか威信を守ることができた。
 
 今年のショパンコンクールでイム・ドンミン、イム・ドンヒョック兄弟が、2位がない3位に入賞した。汗と熱情で黙々と歩んできた韓国音楽界の歴史的快挙だ。2人の兄弟は「これからはコンクールよりも専門演奏者の道を歩みたい」と明らかにした。音楽でコンクールはすべてではない。80年には優勝者であるベトナムのダン・タイ・ソンよりもユーゴ出身のイーボ・ポゴレリチの方が注目された。彼はショパンの曲を恣意的に解釈して本選から脱落したが、今はその独特な曲の解釈がはるかに高い評価を受けるピアニストだ。
 19日夜、ショパンコンクール本選でイム・ドンヒョックは「音がおかしい」と言って指揮者に演奏の中断を要請した。調べた結果、音を調律する器具がピアノの中に残っていた。インターネット生中継に昼夜を忘れて生きている全世界の「コンクール廃人」らは、彼の音楽的資質に驚いた。優勝したポーランドのラファウ・ブレハッチよりもはるかに強い印象を残した。今後、2人の兄弟がいっそう精進し、世界的ピアニストとして活躍することを期待する。

 

 上記中央日報掲載記事は過去のショパンコンクールのことも含めて綴られているわけですが、この2005年の第15回ショパン国際ピアノコンクールでは地元ポーランドから参加したラファウ・ブレハッチ(Rafał Blechacz)が優勝し、第2位無しで第3位に韓国のイム兄弟〔イム・ドンヒョク(Dong Hyek LIM)、イム・ドンミン(Dong Min LIM)〕が入賞したわけですが、このうちのイム兄弟の弟、イム・ドンヒョクの演奏順番の最中、演奏していて「音がおかしい」と演奏を一旦中断、舞台袖に引っ込んでいたスタッフを呼んで調べさせたところ、ピアノ内部に調律器具が残っていることがわかった、というものだったのですが、本選中に発生した出来事ということで、調律師の疲労から来る単純ミスということだったんでしょうね《尤も演奏者にしてみればたまったものではないのですが…》。

 なお、『調律器具をピアノ内部に置き忘れた!?・・・・・・イム・ドンヒョク(韓国)、2005年ショパン・コンクール本選にて』という記事にてこの2年前(2005年)に開かれたショパン国際ピアノコンクール・本選に於けるイム兄弟、そしてラファウ・ブレハッチの各演奏の模様をご覧頂くことが出来ます。

 

 

 次はヤマハの歴代社長の中から、前社長と現社長の2人。
 一人は2000年に社長に就任し、今年6月まで務めた伊藤修二。地元・静岡県出身とのこと。

 

グローカル ~ヤマハ社長 伊藤 修二さん トータルに「音」追求
《読売新聞Web板(YOMIURI ONLINE)・2004年10月27日付け掲載記事》
「ピアニストには長寿が多いですよね。ピアノを演奏すれば、長生きすると学術発表できれば、うれしいのですが…」
 
トータルに 音・音楽追求
――ヤマハピアノは世界的ブランドですが、ライバルのスタインウェイと比べると、どんな位置づけですか。
 「品質や音色では対等になったと自負しています。しかし、世界中のコンサートホールへの累積の納入台数は、米国とドイツに拠点のあるスタインウェイが圧倒的に多い。浜松で開く国際ピアノコンクールでは、若いピアニストが四種類のピアノからヤマハを気に入って、演奏用に選んでくれますが、残念ながら、ピアノは持ち運びできません。慣れているスタインウェイの方が安心ということもあります。今後、ヤマハが品質で圧倒しても、世界中のコンサートで使われるようになるには、一世代以上かかるでしょう」
――歴史や伝統というものですね。
 「それがピアノです。ただ、管楽器となると、個人の持ち物なので、ヤマハ製の音色や演奏性を評価してくれた世界のトッププレーヤーが、どんどん持ち帰って、使っています」
――ピアノの需要は、欧州では伸びているのに、日本では頭打ちですね。
 「日本ではピークの一九八〇年に、年に三十万台のピアノが各社の工場から出荷されました。若いお母さんたちが子供のためにと買ったからですが、世界的にみると異常でした。今は四万台を切ります。ただ、中古ピアノも新品と同等かそれ以上に売れており、八〇年当時にはなかった電子ピアノが登場し、約十万台出ています」
――そのような中で、ヤマハ全体のブランド戦略をどう進めていきますか。
 「商品としては楽器がメーンであり核ですが、着メロのようにネットで配信するデジタルの音もあります。だから、楽器や音楽にとどまらず、トータルとしての音、音楽を追い求めていく、そんな企業イメージを打ち出していきます」
――音、音楽という幅広いビジネスで、世界にライバルはいますか。
 「楽器や音源用の半導体など、それぞれの分野では、ライバルや目標とする企業がありますが、私たちが描いている音の世界にそっくり重なるライバルはいません。それだけに我が社の独自のブランド戦略は、他社との差別化につながると思います」
 
身体の機能回復に 楽器活用
――半導体を使った携帯電話の着メロは、国内で好調ですが、海外にも広がりそうですか。
 「アジアでは台湾が伸びています。中国の携帯は、最初から数曲収録しておいて選ぶプリセット型です。ヨーロッパはこれからですが、アメリカは想像以上に早くブレークし始めています。しかし、欧米は著作権の問題をクリアするのに時間がかかり、ユーザーが好む曲を早く配信できない悩みもあります」
――聞く音楽、する音楽に区別すると、多忙な現代人は、聞く音楽に傾いていきませんか。
 「欧米でも楽器全体の需要は年5、6%ずつ増えています。中国製の安い楽器が流入しても、金額ベースで伸びている。もちろん、インターネットや着メロの配信まで含めた聞く音楽の急増ぶりと比べると、伸び率は小さいですが」
――世界にヤマハを広める役割を果たしてきた音楽教室も、国によって事情が違うんでしょう?
 「ドイツのように、地域社会に音楽教室があるような国では、民間の有料教室は広がりにくいし、個人レッスンが盛んな国でも、あまり増えていません。反対にアジアでは普及を期待しています。台湾はすでに五万人、タイやインドネシアなどはそれぞれ一万人以上の生徒がいます。韓国では日本文化の開放政策を踏まえて、今春からスタートし、中国でも来年から大都市周辺を中心に展開していきます」
――日本の音楽教室では、子供は減る一方、代わってシニア向けが好評のようですね。
 「シニアでもビートルズ世代には結構、楽器をかじった経験があります。仕事以外に何をやろうか、あるいは定年後をどうすごそうかと考えているところに、もう一度、音楽はいかがですかと背中を押してやったのです。彼らは、教わるよりも、練習や仲間づくりの場所が欲しい。それに応える試みも始めています」
――ところで、音楽が健康に及ぼす影響の研究からは、どんなことが分かりましたか。
 「大学の研究室と提携して、研究に取り組んでいます。巨匠ホロビッツは八十五歳で亡くなりましたが、ピアニストには長寿が多いですよね。ピアノを演奏すれば、長生きすると学術発表できれば、うれしいのですが、そこまではいっていません。それは別として、身体障害になった人たちの機能回復に楽器を用いる実践を重ねており、医学的、科学的な証明を待っています」
 
ヤマハ
 本社・静岡県浜松市。1887年、山葉寅楠がオルガン製作に成功し、山葉風琴製造所を経て、10年後に日本楽器製造を設立。1900年からピアノ製造も始めた。55年にはオートバイ部門を分離してヤマハ発動機に。59年にはエレクトーンの開発に成功。87年に現社名に変更した。90年から中国で生産開始。2004年3月期の連結売上高は5395億円、従業員数18800人。
 
ヤマハ社長 伊藤 修二(いとう しゅうじ)
 1942年、静岡県磐田市に生まれる。65年、慶応大経済学部を卒業し、日本楽器製造(現・ヤマハ)に入社。84年、ヤマハケンブルミュージック社長を経て、88年、ヤマハ取締役に就任。専務などを経て2000年から社長。ヤマハ音楽振興会理事長兼務。62歳。
 
記者の眼 ~サウンド・カンパニー
 「ミュージック・カンパニーではなく、サウンド・カンパニーだ」と伊藤社長は語る。音楽を入り口とすれば、狭い世界となる。音から入れば、可能性が大きく広がるからだ。
 例えば、エンジンの乾いた音が消える燃料電池自動車。無音のままでは、接近が分からず危険だから、どんな音を創造するかはビジネスになる。
 浜松ホトニクスが、照明やレーザーといった個別の分野ではなく、光そのものをジャンルとしたのと同様の発想を感じた。光と音。人間の知覚の根源をビジネスとした企業が、ともに浜松にあることが面白い。
 ヤマハでは、工場敷地内に一軒の住宅を建てた。最新のネットワークシステムや映像、オーディオ機器を導入して、十一月初めに完成する。生活の質を高めるために、どんな「形容詞の付いた音」が必要か。音ビジネスの将来を探る試みが始まる。(経済部 千田龍彦)

 

 昔から続く「楽器の販売」にとどまらず、もっと根本の部分にあたる「音」を追い求めていくと共に、音楽と人の健康との関わりにも目を向けていくという姿勢には思わず感服の私・・・

 で、インタビュアーの「音楽が健康に及ぼす影響の研究」という言葉でひとつ思い出すのが、年金政策の煽りを受ける形で来年秋頃に一斉に廃止・売却されることになっている厚生年金会館の問題。

 全国に7箇所所在するホール併設型厚生年金会館は、音楽や演劇等あらゆるジャンルの催しを比較的廉価なホール等使用料で受け入れていることもあって、最低でも5割、最高では実に8割ものホール稼働率をたたき出していますが、ホールの併設されていない厚生年金会館と合わせて、来年秋頃までに廃止され、売却されることが決まっている模様。
 これに対し、厚生年金会館と同じく年金積立金から建てられてきている厚生年金病院については、今年5月初め、「医師不足や病院の統廃合が進む中で地域医療をいっそう空洞化させる」との判断から厚生労働省が全て存続させる方針を打ち出しています。

 以前本ブログで6回にわたって掲載してきた厚生年金会館関連記事の中でも話してきていることですが、身体の病気を治療する場としての病院も勿論必要ですが、それと共にメンタルケアと言いますか、”心の充実”というのも真に健康な毎日を送るためには欠かせないものであり、厚生年金会館はそんな”心の充実”を実現させてくれる場を提供し、以て身体面の健康の維持にも役立ててくれる施設であるように考えるところです。

 と、話が厚生年金会館のほうに行ってしまいそうになりましたが、先のヤマハの前社長・伊藤修二の示した考え方から、物理(化学)面での病気治療(つまり医学的治療ですね)と共に、人の心に働きかける形での”治療”といいますかメンタルケアも欠かせないことを感じました《何だか強引な言い方…》。

 

 その前社長・伊藤修二は、先に紹介した調律師・村上輝久と同じく、磐田南高校のOBだそうで、村上調律師と同様、磐田南高校創立80周年を記念したインタビューにも臨んでいます。

 

第4部 OBと語る 伊藤 修二さん(ヤマハ社長 高13回卒) たくましき知識人に
《中日新聞Web板・2002年11月19日付け掲載記事》
 地元の県西部で活躍する人材を多く輩出してきた磐田南高校。楽器メーカー、ヤマハ社長の伊藤修二さん(60)=浜松市、高十三回卒=もその一人だ。在学当時は陸上競技でインターハイも出場し、文武両道を実践。現在は大企業のトップとして活躍する伊藤さんに、陸上部の後輩、西本拓矢さん、高木祐太さん(いずれも二年生)が話を聞いた。
 
-昔の練習はどうでしたか(西本)。
 「きつい練習だった。投てきの選手は朝からやっていた。練習の最後に、へとへとなのにリレーをやらされたのを覚えている。下級生は先輩のマッサージもやっていた」
-インターハイで二位になった時は、どんな気持ちでしたか(高木)。
 「緊張していたので最初は『二位になったんだな』という感じ。しばらくたってからうれしくなった。当時は伊藤菊造先生という指導者がいて、チームを引っ張ってくれた。技術的には、卒業生がコーチとして教えていた。陸上部員とはつき合いは深かったね」
-勉強は(西本)。
 「家に帰って宿題をやる程度。受験勉強も大会が全部終わって、冬ごろからだったかな」
-今は勉強、勉強と言われています(西本)。
 「変わってきたんだね。昔はバンカラな雰囲気がまだ残っていた。決して勉強をしなくてもいいとは言わないけど、何か一つのことに打ち込むのも大切だと思う」
-現在の立場から言って、今はどのような若い人材が必要とされていますか(高木)。
 「自分の意見の言える人だね。ものを言えない人と、『言っても損するだけ』という雰囲気の会社は良くない」
-先輩として私たちにアドバイスを(西本)。
 「わが社では『知的野蛮人』という言葉を使っているが、そういうたくましさや力強さを備えてほしい。青白いモヤシのような知識人にはなってほしくないね。そのためにも、他のことを忘れるくらいに何か一つのことに打ち込んで、力強さを身につけてほしい。進学校としてのイメージに、たくましさをプラスして、質実剛健・文武両道といった校訓の伝統を残してほしい」
-ありがとうございました(二人)。
 
磐南を語る 3年 柴田百合絵さん
 磐南での学校生活の中で、いろんな場で磐南生は一人ひとりが「これが私だ」というものを持っていることに気づかされる。生徒の一人ひとりに違った何かがあり、その何かがその人の大きな魅力なのだろう。その人の何かに気付かされるたび、自分の高い理想のための追求の姿勢を見直し、追求の動力とする。毎日、磐南という環境の中で何かを学びとっているのだ。自分の選んだこうした環境の中で、常に学ぶ姿勢を持ち続けたいと思う。
(文中敬称略)

 

 逞しき知識人、そして「知的野蛮人」・・・う~ん、ただ知識があるだけの人間というのは損ということなのかな《私の耳にも痛く響きそう…》。
 何か一つのことに打ち込むというのは、自らの存在意義というものをつくる意味でも、欠かせないことなのかも知れませんネ。

 

 さて、そんな伊藤修二・前社長は今年の6月26日付けで代表権のない取締役会長に退き、常務取締役(楽器・音楽ソフト事業統括)だった梅村充が同日付でヤマハの社長に就任することになります。

 

ヤマハ、新中期経営計画スタートで社長交代
《『文化通信.com』2007年5月8日付け掲載記事》
 「ヤマハ(株)」は、先ごろ開催した取締役会で、代表取締役の異動を内定した。来る6月26日に開催予定の定時株主総会及び、その後の取締役会で決定する。
 それによると、現代表取締役会長の岸田勝彦氏が「特別顧問」に、さらに現代表取締役社長の伊藤修二氏が代表権のない「取締役会長」に退き、新たな代表取締役社長として、現常務取締役の梅村充氏が昇格することになった。今回のトップ交代は、2010年に向けたヤマハ・グループの新中期経営計画「YGP2010」のスタートにあたってのもので、「トップ交代で執行体制の活性化を図る」というもの。
 
 新代表取締役社長に就任する梅村充氏は、昭和26年3月6日生まれ。昭和50年3月に東京大学文学部西洋台専修過程を卒業後、日本楽器製造(株)(現ヤマハ)に入社した。
 その後、平成12年にヤマハコーポレーションオブアメリカ取締役社長となり、同13年にヤマハ執行役員に就任した。同15年には執行役員楽器事業本部長、同上席執行役員となり、同18年に常務取締役(楽器・音楽ソフト事業統括)に選任された。
 現在、梅村常務が統括している「音楽ソフト事業」は、今年3月に組織の再編を実施した。再編のポイントは、ヤマハ各部門、グループ各社によって展開してきたアマチュア・ミュージシャン活動支援、アーティスト発掘・育成・創作活動支援、各種メディアを通して創作作品の市場への供給で構成される音楽ソフト関連業務全体を、より効果的で柔軟性のある体制へと変えることだった。そういった意味で、今後は50代の梅村体制の下で、さらに音楽ソフト事業の改革が進められていくものと思われる。

 

 で、その現在ヤマハの社長を務めている梅村充が就任の翌月に中日新聞が行ったインタビューの模様を紹介したのが以下の記事。

 

「意思決定はスピーディーに」 ヤマハ社長 梅村 充氏
《中日新聞Web板・2007年7月7日付け掲載記事》
 楽器、AV(音響・映像)機器などを「ザ・サウンド・カンパニー領域」として、積極的な成長を目指す事業に位置付けるヤマハの新中期経営計画(2007-09年度)が始まった。計画を中心になって立案した梅村充新社長(56)に抱負や課題を聞いた。
 
-課題は。
 新事業への挑戦のために設備や人材に投資しなければならないケースによく直面するが、保守的に対処してきた風土があった。競争が激化している時代。社会の変化に合わせて、意思決定のスピードを速めなければならないだろう。
-コミュニケーションの大切さが重要か。
 「皆で客を見つめ、外に向かって仕事をしよう」「組織の縦、横のコミュニケーションを緊密にしよう」というのが基本的な考え方。全国の営業所や製造拠点に配信し呼び掛けたばかり。実践する方法は各部署で考えてくれるだろう。私自身も国外の工場を含め社内のいろいろな場所を訪ねてみるつもりだ。
-新中期経営計画で重要視したのは。
 ザ・サウンド・カンパニー領域の事業の成長に大きく軸足を移していく計画にした。今春終わった中期経営計画は、売上高が2%しか伸びなかった。今回は7%の成長を目指す。金属事業の譲渡とレクリエーション施設を売却したことを考慮すると、10%の伸びに当たる。日本、中国、インドネシアにあるアコースティック楽器の製造拠点の再編・強化は予定通りに進んでいる。人材育成も含め、新中期経営計画中にコスト力を付ける。
-どんな音楽を目指そうとしているのか。
 長い年月を経ても人々に愛され、歌われる音楽やアーティストを生み出したい。ヤマハは他のレコード会社と違い、全国津々浦々にある特約店や楽器店を通じアーティストの原石を見つける力がある。原石を磨く力も持っている。新会社のヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスを設立し、こうした力を統合できた。ユニークなアーティストを世に送り出せるようになった。「感動を・ともに・創る」がブランドスローガン。人の感情に訴える曲とか、心の琴線に触れる旋律、歌詞があると思う。ヤマハらしい楽曲とは、そこにあるのではないだろうか。

 

 基本的には「音」や「音楽」でビジネスを進めてきた伊藤体制を堅持しながら社内に於けるコミュニケーションの円滑化を推し進めていく、ということでしょうか。

 その梅村社長、3年前(2004年)にまだ上席執行役員だった頃には、中国への音楽ビジネス拡大に関して、日本経済新聞のインタビューを受けています《以下の記事》。

 

中国でも「ヤマハ音楽教室」展開へ 梅村充・ヤマハ上席執行役員
《『NIKKEI NET』(中国ビジネス特集)・2004年10月01日付け掲載記事》
――中国でアーティストの支援事業を始める
 「中国は近年、世界的に活躍する音楽家を様々なジャンルで輩出している。特にクラシックでは、数々の伝統あるコンクールで中国人の優勝や上位入賞が続いており、国を挙げたエリート育成の成果には目を見張るものがある。
 中国ではピアノなど西洋楽器の普及率はまだ大変低い。あこがれのミュージシャンの存在は楽器の市場拡大にもプラスに働くはずだ。西洋音楽文化のすそ野を広げていくため、音楽界をリードするアーティストの育成や支援を、中国での最重要プロジェクトの一つととらえている。この秋、上海に「アーティスト・リレーション・チャイナ」を含む総合サービスセンターを開設する予定で、ピアノや管楽器を中心にアーティストのサポートなどの関係作りを始めていく。
 ヤマハのピアノは中国では高級品だ。価格競争力のある中国メーカーとの差別化を図るためにも、ヤマハブランドの育成は重要だ。トップアーティストや専門家への支援は、ブランド構築にとって欠かせない。ポピュラー音楽ではアジア各地でバンドのコンテストを開いており、こういった活動を中国でも展開していきたい。」
 
――中国のピアノ市場はどこまで伸びるか
 「一人っ子政策で中国も少子化が進んでいるが、教育熱が非常に高いうえ、もともとピアノの普及率が低かったこともあり、市場の伸び率は大変大きい。2003年の市場規模は年間20万台を大幅に上回った。2010年に30万台を大きく超え、2020年には50万台まで拡大すると見ている。
 可処分所得の伸びが最も大きな理由だが、ピアノを持つことがステータスシンボルとなっていることや、1戸当たりの住宅面積が広くなっていることも関係しているだろう。ピアノに続いて管楽器やギター、ドラムなども今後、普及が進むと期待している。」
 
――日本や欧米での主力事業である音楽教室の展開は
 「中国では教育熱を反映して、楽器店などでのピアノの個人レッスンが人気だ。現在当社では、日本や欧米で展開している音楽教室を中国流にアレンジした内容でキーボード教室を展開しており、既に約2万人の生徒がいる。沿海部が中心だが、大都市以外でも展開している。
 本格的な音楽教室も始めたいと考えており、準備を進めている。しかし、本格的な音楽教室は「教育」や「文化」そのものであるとして、外資企業に対する市場開放は一番最後になりそうだ。政策の動向をにらみながら、近い将来、上海あたりから始めたいと思っている。」
 
――指導者の育成にはどう取り組む
 「中国でも日本同様、専門の講師による指導者育成に取り組んでいる。音楽教室の本格展開をにらんで、既に北京、上海を中心に音楽大学の卒業生などを募集し、将来の指導者育成を進めているところだ。
 楽器のメンテナンスなどのアフターサービスを担う調律士の育成も、日本人技術者を駐在させて指導にあたっている。11月に開設する上海の総合サービスセンターにこの機能も含む予定である。
 ピアノの指導者も調律士も、人材の育成には時間がかかる。当社の事業展開においては「人」が重要なポイントなので、重点的に先行投資すべき部分だと考えている。」
 
――10月に稼動する新工場で中国ピアノ市場に本格攻勢をかける
 「ピアノの国内市場の売れ筋は、地元メーカーが生産する1万5000元(約19万5000円、1元=13円)前後の大変低い価格帯だ。これまで日本で生産する当社のピアノは3万元(約39万円)以上で、量販は難しかった。10月から杭州で稼動する工場では、国内市場への本格的展開に向け、初めてこの量販価格帯に近い、2万元(約26万円)程度のピアノを量産する。
 ピアノの組み立て工場としては、広州に中国企業と合弁の工場があるが、あえて杭州に100%子会社の工場をつくり、国内市場の急拡大に対応する。広州工場のピアノ生産台数は年7000―8000台だが、杭州は来年から年1万台、3年後にはその3倍の生産を見込んでいる。」
 
――国内で生産する「コストハーフ管楽器」の売れ行きは
 「国内市場向けに特化した低コスト生産による戦略商品として、管楽器の主軸となるフルート、サックス、トランペットの生産を浙江省蕭山の工場で開始した。中国では学校のスクールバンド活動の拡大を受けて管楽器の需要が非常に伸びており、こういった分野に供給していきたい。
 まだ文字通りの「コスト半分」とはなっていない。品質と生産性もまずまずのところにきているが、基幹部品はまだ国外から調達しているものも多い。今後は国内で調達できる部材の比率を高め、コスト低減を進めていきたい。」
 
――競合相手としての中国メーカーの品質は
 「中国のピアノメーカーは欧米市場、特に米国でプレゼンスを高めている。欧米の品質基準への対応力もついてきており、年々品質は向上し、コストパフォーマンスの高い製品になっている。
 しかし、特にアコースティック楽器の「品質」は、「精度」や「耐久性」などの基本性能に加えて、音に対する「感性」が重要だ。この感性の部分では、100年を超えるピアノ作りの歴史を持つ当社に、一日の長がある。中国メーカーが一朝一夕には獲得しづらい要素だ。
 中国で当社が生産する国内市場向けの低コスト製品はあくまで中国市場向けであり、日本市場へ逆輸入するといった考えはない。」
 
――中国を「工場」というよりも「マーケット」ととらえているのか
 「国内市場開拓はまさにこれから。現時点では世界市場に向けた「工場」としての位置付けの方が大きい。
 中国での生産体制は、1990年にスタートした天津工場を皮切りに、広州、蕭山、蘇州、杭州と、5つの工場を持つ。天津工場で生産する電子楽器のポータブルキーボードは世界に向け年間100万台以上輸出しているし、蕭山は世界のピアノの生産拠点に向けた部品の供給工場として重要な役割を担っている。
 楽器製造は労働集約型産業という要素が大きく、日本の20分の1といわれる賃金格差も大きなメリットになっている。」
 
――2008年の北京五輪に向けての取り組みは
 「実はアテネ五輪では開会式、閉会式には当社のデジタルミキサーが採用された。北京五輪でも採用を働きかけていきたい。五輪に向けてコンサートホールなどの音楽施設も建設ラッシュを迎える中、プロ向けオーディオ機器の需要も急拡大している。この分野の製品はまだ日本での生産がほとんどだが、中国市場の開拓は成長機会の大きな柱ととらえている。」
(聞き手は村尾龍雄・弁護士法人キャスト代表)

 

 で、現在ヤマハによる中国への進出状況はと言いますと・・・

 

ヤマハ、中国で音楽教室拡大・3年で生徒1万人めざす
《『NIKKEI NET』(中国ビジネス特集)・2007年4月6日付け掲載記事》
 ヤマハは6日、中国でピアノやギターなどの音楽教室を3年後に40会場、生徒数を1万人まで増やす計画を発表した。現在は上海に6会場あるだけだが、北京や広州など主要都市に展開してブランドの浸透を狙う。ヤマハ専門コーナーのある楽器販売店も現状の3倍近い200カ所に拡充する。音響機器を含めた中国での売り上げを2007年3月期に比べ1.5倍にあたる200億円に引き上げる。
 
 10年3月期までの新中期経営計画に盛り込んだ。中国の音楽教室は05年秋に上海に楽器教室第1号を開設、現在の生徒数は1300人。ピアノなどの楽器は個人指導が主流の中国で、5―10人のグループレッスンを導入し、着実に生徒数を増やしている。経済成長に伴い、個人の所得も増えて楽器を習う消費者のすそ野が広がるとみている。
 同社はリゾート事業縮小や金属事業の売却を3月に相次ぎ発表。新中計では「音・音楽」に経営資源を集中して成長戦略を描き、10年3月期までに連結売上高を07年3月期の見込みに比べ9%増の5900億円、営業利益を73%増の460億円に引き上げる。

 

 上海からスタートしたヤマハの中国戦略、現在のところはまずまずの手応えを感じ取っている模様ですね。

 

 

 話が厚生年金会館や中国と色々いってしまいましたが、世界のピアニストにも支持されているピアノ調律師を抱え、楽器販売を土台にして音楽、そして音(サウンド)へと軸足を移そうとしている静岡が生んだ楽器製造大手のヤマハ、世界のピアノ御三家の一つであるベーゼンドルファーの経営に乗り出そうとしている今、170年余りの伝統を誇るこのオーストリアの老舗ピアノメーカーが備えている「味」を見事受け継ぐことが出来るのか、その手腕が問われようとしています。

 

 

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コメント

村上氏のコメント、新聞からの直接の抜粋
など、許可を得ているのですか?
不愉快です。

 マカロンさん、ご指摘ありがとうございます。

 今回の記事は村上氏を初めとするヤマハの関係者の活躍ぶりを関連する新聞記事を交えながら紹介し、そこからヤマハの最近の姿をお伝えするのを目的としていましたが、新聞記事の扱い方、当方の記述の仕方等で不快感を与えてしまったことにつき、深くお詫び申し上げます。

 以後、このようなことの無きよう十分気をつけながら記事を書いていきたいと考えております。

 ありがとうございました。

初めまして。
ベーゼンドルファーの事について調べていましたら、ここのサイトに辿り着きました。
(趣味でクラシック関係の小説を書いております)
新聞記事や公演内容等を細かに出されていて、大変参考になりました。
特に調律師の村上氏のお話関係はすごく参考になりました。(調律師の事を書いてますので)
確かに著作権等の問題はあるかと思いますが、資料を探す者にとっては大変ありがたい事です。でも、この程度でどうとか言う方がおかしいと思いますが?この程度だと許される範囲ないと思います。もっと一杯載せているヒドイサイトはありますから・・・。
これからもクラシック関係の事を載せてくださったら私(だけ?)はすごくありがたい限りです。
又、寄せていただきます。
ベーゼンドルファーの売却は悲しかったです。今ベーゼンドルファーの事を書いてますので・・・

 飛鷹小夜子さん、こちらこそ初めまして。
 ようこそおいで下さいました!


 お役立て頂いているようで、こちらとしても嬉しい限りです。

 ただ、私自身、今回の記事に関して、自分自身の記事として掲載する以上、もう少し自分の考えや印象等を書くべきだったかな・・・なんて思うことも正直なところあります。

 このサイトは私が趣味としている音楽(但しクラシック音楽主体ですが…)と乗り物について書かせて貰っているところでありますが、これからも気をつけて記事を書き続けていきたいと思っています。


 それにしてもベーゼンドルファーの売却劇、私も驚きました。

 ヤマハには、同じ楽器メーカーとして、ベーゼンの築いてきた長き伝統を尊重しつつ、発展させていってほしいと願うばかりです。


 こちらこそ、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

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