関西本線旧線「亀ノ瀬トンネル」約80年ぶりに発掘──飯田線”向皆外トンネル”を連想?《一般公開も検討中か》
私の自宅で購読している朝日新聞の今日(12月10日)付発行の朝刊・社会面にデカデカと写真入りで掲載されていました!
大阪府柏原市内の大和川右岸に於いて大和路線(関西本線)の前身にあたる大阪鉄道時代に建設された旧線のトンネルの一つが偶然発見されたとのニュース───私の現住地域から見てわりと身近な場所に於ける、ある意味歴史的発見といえるところですね、これは。
しかも状態は比較的良好との由───掲載されている写真を眺めていて、心が躍りましたよ。
で、今回発見されたのは大和路線(関西本線)の「河内堅上~三郷」間に昭和7年(1932年)初め頃まで存在していた旧線区間に掘削された亀ノ瀬トンネル(亀ノ瀬隧道。延長約500m)の一部。
このトンネルには大和路線の前身・大阪鉄道時代の明治25年(1892年)2月に開通した初代トンネルと、国有化されて以降に複線化された1924年に初代トンネルに並行して開削された2代目トンネルの2本が存在し、今回、初代トンネル(複線化後に於ける下り線トンネル)の約66m分と2代目トンネル(複線化後に於ける上り線トンネル)の約49mが発見されたとの由。
明治と大正に相次いで建設された、この旧線区間内に於ける亀ノ瀬トンネル2本(位置関係については『関西本線旧線 亀ノ瀬隧道』を参照)については、昭和6年(1931年)11月下旬から翌年(昭和7年、1932年)初めにかけてこの一帯を襲った大規模な地滑りにより不通となり、その後この区間を迂回する現在線が建設され〔昭和7年12月31日にまず単線で開通、その約3年後にあたる昭和10年(1935年)12月30日に複線化完了〕、最終的に廃棄されました。
うーん、何だか飯田線「城西~向市場」間に於ける”向皆外トンネルの悲劇(というか「渡らずの橋」こと第6水窪川橋梁の生い立ち)”を連想させられるところですね、この出来事は《尤もその”向皆外トンネルの悲劇”が起きたのはこの地滑り発生から20年以上経過した1954年のことですが…;→『飯田線 第6水窪川橋りょう(S字橋、渡らずの鉄橋)』・『飯田線各駅停車【城西駅】』》。
で、その廃棄された2本の亀ノ瀬トンネルが発見されるきっかけとなったのは、昭和37年(1962年)から続いてきている、この関西本線旧線が走っていた大和川右岸一帯に於ける国土交通省(旧”運輸省&建設省”)近畿地方整備局(大和川河川事務所)による地滑り対策工事。
その対策工事の一環として行われてきている地下水抜き取りのための排水トンネル整備工事に於いて、昨年(2008年)11月、排水トンネルの一部(長さ580m)の掘削中に偶然発見したとのこと。
発見されたのは初代トンネル(下り線用)のうちの長さ約66m分と2代目トンネル(上り線用)のうちの長さ約49m分で、地滑りによって不通そして廃棄となって以来、実に約80年ぶり(というか約77年ぶり)の発見となったわけですが、何れのトンネルとも現在のトンネル掘削に於ける建築限界にほぼ合致しているような格好となっているみたいですね。
それら発見された部分のうち、下り線用の初代トンネルの一部区間約39m分については、発見時点に於いても比較的良好な状態にあったのか、安全性が確認出来るとして、煉瓦積みの原型のまま保存することになり、去る12月9日に近畿地方整備局と柏原市教育委員会が共同で報道陣向けに公開すると共に、今後は一般向けに定期的に公開することも検討しているとのこと。
新聞に掲載されていた写真は、まさしくその報道陣向け公開の際に撮影されたものということになるわけですが、単線トンネルならではの曲線構造が見事なまでに残り、それを構成する煉瓦たちも一部を除いて綺麗に積み上がっているままの状態を保っていて、天井を見れば蒸気機関車から吐き出されたであろう煤煙の跡───まさしくここを客車を牽引した蒸気機関車が駆け抜けていったことを物語ってくれています。
余談ですが、この「河内堅上~三郷」間、今回亀ノ瀬トンネル2本が発見された一帯は奈良県との県境に近い、現在線である大和路線の奈良側に於ける山間部区間への入り口付近にあたる場所になるわけですが、私も一時期、奈良からの大和路線電車(主に快速系電車)に乗ってここのあたりを割と頻繁に通過したことがあります。
にもかかわらず、昭和7年初めまで存在していた旧線区間の存在、そしてその旧線区間に於ける2本の亀ノ瀬トンネルの存在については、今回の報道が為されるまで、正直なところ全然知りませんでした。
今回発見された、旧線区間に於けるそのトンネルが現在住んでいる地域から見てわりと身近な場所にあるだけに、驚きと共に、妙な親しみというものも感じられるところです。
出来ることなら、一般公開が始まり次第、是非一度見に行きたいところです───かつてここを駆け抜けた列車たちに思いを馳せながら。
P.S.
関西本線の歴史の中で思い出されるものの一つに、明治後期から昭和初期にかけて見られた、現在の柘植・伊賀上野などを経由していた当時の関西鉄道と現在の東海道本線のルートを辿っていた当時の官設鉄道との名阪間に於ける熾烈な競争劇があります。
当時の大阪鉄道の手により明治25年(1892年)に今回発見された亀ノ瀬トンネル(亀ノ瀬隧道)の初代トンネルが完成して「湊町(現・JR難波)~奈良」間が全通となった、その6年後の明治31年(1898年)に名古屋から西に路線を延ばしてきた関西鉄道が現在の片町線(学研都市線)を経由する形で大阪〔網島(現在廃止)〕まで開通させると東海道本線を通る官設鉄道との熾烈な競争の火ぶたが切って落とされました。
その競争劇は、明治33年(1900年)6月に「湊町~奈良」間が関西鉄道に譲渡されて以降、激しさを増し、運賃の値下げ合戦に加え、挙げ句の果てには関西鉄道がきっぷを買ってくれた客(つまり自分ところの乗客)にもれなく弁当(当時は確か「新鮮な汽車弁当」と呼称していたような…)をサービスするという有様でした。
結局、明治40年(1907年)に鉄道国有法に基づいて関西鉄道の路線網が国有化されることでこの熾烈な競争劇は終わりを告げたわけですが〔ここまでの競争劇が災いして国有化されてからは冷遇されて整備が遅れたとの逸話有り〕、初代亀ノ瀬トンネルは関西鉄道に譲渡されてから約7年間の、名阪間に於ける官設鉄道との熾烈な競争劇を見守っていたことにもなるわけですね。
◎ 参照記事(本文中紹介分を除く)
『幻の旧鉄道トンネル、残っていた 昭和初期に閉鎖 大阪』
《→『幻の旧鉄道トンネル、残っていた』》
『地中から「幻の鉄道トンネル」見つかる 大阪・柏原市』
《→『地中から「幻の鉄道トンネル」見つかる 大阪・柏原市』》
『「幻のトンネル」80年ぶり確認 大阪、地滑りで埋没』
『明治をくぐり抜けて JR草津線』
『鉄道と王寺(その4)』
<(_ _)> ありがとうございます。よろしくお願いします <(_ _)>
←ソーシャルブックマークです
←ランキング参加中。各1クリック願います!
【関連記事(朝日新聞・2009年12月10日付け朝刊掲載記事)】
「JR西日本広島支社所属車両、「濃黄色」又は「朱色」一色に──8年かけて塗り替え。JR発足前の車体色復活か?」
« 【「第27回サントリー1万人の第九」公演記=1】自宅から大阪城ホールへ──自転車で。ホール到着は門限ギリギリ | トップページ | 東海道新幹線一部区間、330km/hにアップ検討か──JR東海、2011年後半目処、九州新幹線全線開業予定の年 »
この記事へのコメントは終了しました。
« 【「第27回サントリー1万人の第九」公演記=1】自宅から大阪城ホールへ──自転車で。ホール到着は門限ギリギリ | トップページ | 東海道新幹線一部区間、330km/hにアップ検討か──JR東海、2011年後半目処、九州新幹線全線開業予定の年 »
コメント