モーツァルト『交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」』をサヴァリッシュ=ベルリン・フィルで…1997年ベルリンにて
昨日(5月10日)は早朝から父親(ちなみに右半身麻痺状態)の診察の順番取りに駆り出されるなど、鬱陶しい空模様の下で慌ただしかったです。
昼前に改めて車いすの父親を押して出かけるときには真面目に雨が降っていて、久しぶりに介護タクシーを呼んだぐらいでしたが、2時間近く病院内で過ごした後に自宅に戻る際には雨は止んでいて、それでも雨が心配で母親に用意してもらった雨合羽を父子共々着用しての帰宅となりました(爆)
私自身、正直精神的に少し参っていたかな・・・
それはさておき、今回は、ここのところ繰り返し耳にしている楽曲の一つを書きます。
今回書きますのは、モーツァルトにとって生涯最後のシンフォニー作品となってしまいました『交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」』。
作曲されたのは1788年8月10日、モーツァルト32歳の頃の作品で、一つ前のシンフォニー作品である『交響曲第40番ト短調K.550』が作曲されてから僅か約半月後に書き上げられています。
この「1788年」といえば、モーツァルトの亡くなる3年前でもあり、またこの前年(1787年)には同じく古典派作曲家の一人として音楽史にその名を遺しているベートーヴェンがモーツァルトに弟子入りを志願しています。
尤もベートーヴェン自身は、一旦はモーツァルトに弟子入りを認められるも、母親の死去のため故郷ボンに戻って一家の家計を支えることも余儀なくされたわけですが──余談ながら、モーツァルトに弟子入りを許されてから約13年後の1800年にベートーヴェンは『交響曲第1番ハ長調作品21』を完成させていますが、この作品は家事に追われながらもモーツァルトやハイドンといった古典派作曲家たちによる作曲技法を学習し続けてきていたベートーヴェンがその成果の一つとして書き上げたものといわれています。
ところで”ジュピター”という標題はモーツァルト自身が付けたものではなく、ほぼ同世代の作曲家で音楽興行師でもあるヨハン・ペーター・ザーロモンがローマ神話に登場する最高神ジュピターにちなんで付けたと伝えられており、終楽章の冒頭で使われている「C-D-F-E(ド-レ-ファ-ミ)」の音型は”ジュピター音型”として、この作品を特徴づけるものとして今日に渡って広く知れ渡っているみたいですね。
ただ、この”ジュピター音型”と呼ばれる音型自体はモーツァルトの過去の作品(『ミサ・プレビス(小クレド・ミサ)K.192』など)にも見られる他、モーツァルトに限らず、当時ウィーンを中心にかなり普及していた伝統的音型との指摘も存在します《→『モーツアルト交響曲を聞く46 交響曲第41番ハ長調K.551』》。
その一方で、モーツァルトを尊敬していたといわれるR.シュトラウスは「終曲のフーガを聴いたとき私は天にいるかの思いがした」などとこの楽曲を高く評価したところから、何だか宇宙的広がりを持った作品であるかのようなとらえ方が為されているみたいですね《そう言われてみればつい納得してしまう私…》。
それに触発されたか否か定かではありませんが、豚まんやアイスキャンデーで関西圏に於いてはおなじみの存在となっている「551蓬莱」が、過去に、このモーツァルトの第41番シンフォニーの、まさしくR.シュトラウスをして「天にいるかの思いがした」と言わしめた終楽章コーダ部分に見られる”ジュピター音型”によるフーガのところをCMソング(というかBGM)として使っていたことを何となくながら思い出しました。
尤も私はその「551蓬莱」の豚まんやアイスキャンデーを口にしたことはありませんが・・・
つい脱線してしまいましたが、このモーツァルト”ジュピター”シンフォニー、最近では1997年3月13日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(BPO、BPh)が、自身のホームグラウンドとしてドイツ=ベルリンに建つフィルハーモニー(大ホール)に於いて、当時フィラデルフィア管弦楽団(アメリカ)の音楽監督を務めていたヴォルフガング・サヴァリッシュを指揮台に迎えての演奏会(定期公演?)の中で行われた演奏にて繰り返し耳にしてきています。
ちなみに、このサヴァリッシュ指揮による演奏もまた、先日まで立て続けに書きましたリッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルトの交響曲3曲(第36番「リンツ」・第38番「プラハ」・第40番)と同様、NHK-FMで放送された『ベストオブクラシック』からのエアチェックにより得られたものを、PC内に取り込んだ上で、聴いているものです。
サヴァリッシュの演奏は、私もまた、このモーツァルト”ジュピター”に限らず、シューマンやメンデルスゾーンなどの作品に於いても聴く機会があったりしますが、私自身が実際聴いて感じる範囲でいうならば、ロマン派の作品であっても耽美的になりすぎず、全体としてサラリとかわしていくような感じのする、重たすぎない演奏でほぼ一貫しているような感を抱くところですね。
今回のモーツァルト演奏の場合、勿論全体としてはサラッとした感じに音楽を作っていっているみたいですが、所々でレガートっぽく演奏したり、ある箇所で金管パートを高らかに鳴らしていたりしていて───ドライに推移させる中にも人間としての気持ちをちりばめているとでもいうか、心象を要所要所であぶり出しているとでもいうか・・・
いわゆるピリオド楽器(古楽器)演奏時にみられるような、純粋な音楽芸術として演奏を完成させていくのとは少し異なり、理性的に作っていきながらも、所々で心のひだを織り込ませていて、サウンドに厚みを持たせてもいるような印象。
余分に感情表出をせぬようコントロールしながらも、表出すべきところではここぞとばかりに出していく───そんなサヴァリッシュの音楽構築方をこのモーツァルト”ジュピター”演奏にて感じました《と今更書くほどのことでは無いのかもしれないけれど…》。
理性的な中にも人間臭さを───そんなところなのだろうか、サヴァリッシュの音楽作り。
何だか取り留めのない文章となってしまっていますね・・・スミマセン。
◎ 参照記事(本文中紹介分を除く)
『曲目解説:モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」』
『モーツァルト「交響曲第41番「ジュピター」」(Symphony No.41, Mozart)』
『モーツァルト交響曲第41番 ハ長調 "Jupiter"の概要、基本情報と演奏データ比較 (a.k.a.モーツアルト)』
→『モーツァルト:交響曲ハ長調KV.551 - アンサンブル花火 第6回演奏会プログラムノート』
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ベートーベン
歓喜の歌ドイツ語版(ショパン)
歓喜の歌~ベートーヴェン(混声)

今度は「ジュピター」ですか。
最高ですね、Va弾きにとっては最終楽章の、コーダの部分は力が入ります、めっちゃ目立ちますもん。
最終楽章と云えば、展開部のフーガなどようできてると思います。
なお小生は、ジュピターの演奏で、これが一番いい、というのを知りません。
投稿: ポケット保持 | 2010年5月11日 (火) 22時02分
ポケット保持さん、おはようございます。
仰るとおり、終楽章の最後に据えられたコーダ部分の大半を形作っている”ジュピター音型”によるフーガ(正確には「フガート」)には惹かれるところですね。
聴いていても引き込まれそうですし・・・
私も、ここ最近になってようやくモーツァルトの交響曲とかを繰り返し聴くようになってきているので、どの演奏が秀逸かと自信を持って言えるところまでにはまだまだ到達しておらず、今後とも様々なアーティストによる演奏に触れてみようと思うところです。
投稿: 南八尾電車区 | 2010年5月13日 (木) 07時53分