余部橋梁、”余部鉄橋”から新橋梁に架け替え…7月17日から。余部の自然の猛威と闘った98年間、「みやび」転落も
首都圏に於いては京成成田空港線(成田スカイアクセス)の開業と2代目AE形電車による新”スカイライナー”正式デビューで沸き立っていた去る7月17日、兵庫県北西部の日本海側山間部に於いても鉄道史に一区切りつく出来事がありました。
国鉄末期の1986年12月、折からの強風に煽られて回送中の和風ジョイフルトレイン「みやび」が脱線転落した現場にもなった、あの余部橋梁(余部鉄橋)の架け替え工事───その最終段階(旧橋梁の使用終了及び撤去、新橋梁への線路付け替え)に入ったのです。
総工費331,535円を費やして2年少しの期間をかけて1912年(明治45年)1月13日に完成、そして同年3月1日に開通となった初代の余部橋梁《いわゆる”余部鉄橋”;この開通に伴って山陰本線の「京都~出雲今市(現・出雲市)」間が全て繋がっています》。
全長約310m、高さ約41m、を誇るトレッスル橋はまさに圧巻ものなのですが、地元民にとってはかけがえのない存在だとか。
何しろ、この”余部鉄橋”が無かった頃、余部集落の住民の多くは出稼ぎのため約100km離れた京都方面まで歩いていったという話が伝わってきていますし、この余部橋梁が1912年に完成・開通した後も、太平洋戦争が終結してから10年以上経過した1959年(昭和34年)4月に橋のたもとに餘部駅が完成・開業となるまで、列車に乗ろうとする余部集落の住民は、列車往来の合間を縫って、高さ約41mのこの鉄橋を渡ってトンネルをくぐったりして約2kmのところに位置する鎧駅に向かわなければなりませんでした。
そうした中で、地元住民による懸命な駅設置請願運動などの甲斐あって、余部鉄橋の開通から実に45年以上の年月を経て橋のたもとに餘部駅が建設されることに決まったとの報せに接した時の地元住民たちは皆喜びも一入の態を表し、大人も子供も海から石を運び上げるなどして餘部駅建設の手伝いをしていたことはあまりに有名な話です。
余談になりますが、1912年に完成した当時の、この鉄橋建設につぎ込まれた総工費「331,535円」について、現在の金額に換算すると約42億円に相当するのだそうです《→『余部鉄橋(あまるべてっきょう)のご案内』》。
ちなみに今度新しく造られた2代目コンクリート橋梁の総工費が約30億円と聞きますから、今から考えても、初代橋梁の建造時にはすごい巨費を投じていた事がわかりますね。
そんな、地元民にとっては思い出深い存在でもある余部橋梁ですが、前記の「みやび」脱線転落事故を契機に掛け替えの議論が本格化し、最終的に「エクストラドーズドPC橋」形式によるコンクリート主体の新橋梁建設が決定、併せて透明アクリル板による防風壁をも整備することで、眺望を確保しつつ風速30m/sまで運行可能としました。
総事業費約30億円をかけて2007年春に着工〔同年5月27日に架け替え工事の起工式挙行〕、同年夏頃から本格的に橋脚・橋台の工事に取りかかり、2009年度からは橋桁の工事にも取りかかっています。
今年に入ってからは、4月に新橋梁がほぼ完成し、新旧2本の橋梁が並行する光景が約3ヶ月間見られた様子。
そして、首都圏に於いて「成田スカイアクセス」の開業で沸き立った7月17日・・・
開通以来98年間にわたって山陰の鉄路を支えてきた初代余部橋梁(余部鉄橋)は使用終了となり、地元民らが見守る中、解体作業が始まりました。
旧橋梁の使用最終日となった7月16日、地元住民や鉄道ファンらが見守る中を特急「はまかぜ5号」(大阪→鳥取;播但線経由)が営業列車として最後に旧橋梁を通過、そして翌日(17日)未明、最後の回送列車が通過したところを見計らうかのように旧橋梁からレールや枕木、バラスト(恐らく橋梁の付け根部分か)の撤去作業が始まり、朝9時過ぎからは旧橋梁の東側から順に切断されていき、クレーンを使って地上に下ろされていきました。
本日(7月20日)ぐらいまでに旧橋梁東側の橋脚4本と橋桁を撤去することにしている模様であり、観光用に残存れることが決定している西側の橋脚3本を除く残り4本の橋脚についても10月までに撤去される見通しだとか。
それにしても、一部の関連記事に掲載されている、一定幅にカットされた旧橋梁の橋桁がクレーンで下ろされる場面を捉えた写真画像を眺めるにつけ、山陰路をつなぐ鉄路を支える橋梁の一つとして98年もの長きにわたって過酷な但馬・余部の自然環境に耐え続けてきた”余部鉄橋”の在りし日の姿を思い出すと共に、老朽化という不可避な現象のためこうして最期を迎えざるを得ないあたりに一抹の寂しさというものを禁じ得ないところも正直あります。
本当に「お疲れさま!」と、ネットを通じてではありますが、私からも遅ればせながらこの場で声かけさせていただきます。
この余部橋梁の新旧橋梁架け替えの最終作業は8月11日まで続く予定で、その間、「香住~浜坂」間はバスによる代行輸送が実施されています。
そして8月12日、「PCラーメン橋」形式の、コンクリート主体となる2代目余部橋梁の使用が開始されることになっています。
少し余談っぽくなりますが、余部橋梁を通過する、現在では唯一の定期優等列車となってしまった特急「はまかぜ」は、2011年度以降には後継となるキハ189系気動車に置き換えられることになるでしょう。
そのため、2代目余部橋梁の使用開始後、現行運用車両であるキハ181系による「はまかぜ」が新橋梁を渡る姿が見られるのは1年半程度とみられます。
よって、今年度中か来年度に入ってからなるべく早い時期に撮影するなりされるといいのかも・・・
8月12日に正式デビューとなる2代目余部橋梁と、それを取り巻く風景との取り合わせを頭の中で想像しながら、楽しみに待っていようと思います。
◎ 参照記事(本文中紹介分を除く)
『余部鉄橋解体作業 名残惜しみ見守る』
『余部鉄橋の撤去工事始まる…8月12日から新橋』
『橋げたそろーり、4m移動…余部鉄橋架け替え工事』
『JR余部鉄橋、最終列車が通過…98年の歴史に幕』
『余部鉄橋の解体作業始まる』
『余部鉄橋「お疲れさま」 ファン2千人別れを惜しむ』
『100年の歴史に幕 ありがとう、さようなら余部鉄橋』
『余部鉄橋の歴史』
『中国地方の旅(その21)兵庫県香美町・余部鉄橋』
<(_ _)> ありがとうございます。応援よろしくお願いします <(_ _)>
←ソーシャルブックマークです
←ランキング参加中。各1クリックご投票を!
【関連記事〔余部橋梁(余部鉄橋)関連〕】
「山陰本線余部鉄橋の裏側・・・保線区員命がけの活躍、国鉄終焉直前の「みやび」転落事故《「鉄道の日」1ヶ月前に寄せて》」
「山陰本線・余部橋梁「8月12日」架け替え完了&使用開始…4月1日より映像配信も開始《+円山川橋梁も架け替え》」
「余部橋梁開通までの山陰本線史(現在の餘部駅以東)・・・日本海新聞一掲載記事に触発されて《希望をもたらす存在》」
「余部橋梁新旧架け替え、佳境か…開通迄残り5日。隙間へのコンクリート打設も終了、あとは防風壁設置と軌道工事か」
「余部橋梁の2代目新橋梁、明日開通へ・・・山陰本線「鎧~餘部」間、着工から約3年4ヶ月。地元で新愛称付与の動き」
「余部橋梁の2代目新橋梁、早速ライトアップ・・・開通初日(8月12日)の夜、真夏の夜の”未来鉄路”。地元住民等の手で」
【関連記事(列車の中から余部橋梁を…)】
「今春分「青春18きっぷ」”消化乗り鉄”のこと・・・【1】鳥取の巻=〔2〕カニばさみ、そして余部鉄橋」
« 「成田スカイアクセス」開業、2代目AE形車両「スカイライナー」正式デビュー…7月17日、京成電鉄。都心から最短36分 | トップページ | 佐渡裕『21世紀の第九』今年異例尽くめか…来年開催無し。延原『第九deクリスマス』X'mas後に《「万九」来年微妙?》 »
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
« 「成田スカイアクセス」開業、2代目AE形車両「スカイライナー」正式デビュー…7月17日、京成電鉄。都心から最短36分 | トップページ | 佐渡裕『21世紀の第九』今年異例尽くめか…来年開催無し。延原『第九deクリスマス』X'mas後に《「万九」来年微妙?》 »
兵庫県北部の出身である私にとって、余部鉄橋には少し思い出があります。中学校の時の遠足だと思うのですが、鉄橋の端の余部駅で降りて、山を下り、鉄橋の下をくぐって歩いた記憶があります。駅ができてから4-5年くらい経ったころのことかと思います。何回か電車で渡ったことがありますが、下から見上げたのはこの時だけです。
投稿: nori | 2010年7月27日 (火) 00時31分
noriさん、こんばんは。
ご無沙汰です・・・
実際に現地に踏み入れられているんですね!
ちなみに、私は列車で通り過ぎたことがあるのみです(涙)
今では写真で見るのみとなってしまった、かつての「余部鉄橋」こと初代余部橋梁───来月12日の新橋梁使用開始を前にして、今一度写真を見ながら偲ぼうと考えています。
投稿: 南八尾電車区 | 2010年7月27日 (火) 22時08分