阪和貨物線、そして225系近郊形電車──国道25号線から見えた、JR(旧国鉄)の”栄枯盛衰”
3日前にあたる去る3月20日、久しぶりに大阪・日本橋の電気街まで自転車を走らせました。
手持ちのハードディスクドライブ(HDD)の一部の処分と、電気街にしか無いとみられるものの買い物がその目的だったわけですが・・・
その、日本橋電気街に向かう道中に於いて、2つ、目を惹くものと出会いました。
一つは旧阪和貨物線鉄橋。
私の自宅から日本橋電気街まで自転車を走らせる場合、そのルートの大半を国道25号線が占めることになるわけですが、その国道25号線に於ける八尾市と大阪市との境界点(近畿自動車道との交差地点付近)から大阪市内方向に3~4分ほど走らせたところで、ほぼ垂直に交差するその鉄橋が見えてきます。
先に記した去る3月20日、久方ぶりに国道25号線の八尾市方向からその阪和貨物線鉄橋を目の当たりにした私は、そこに以前張られていたはずの架線が無くなっているのが見え、一抹の寂しさを覚えました。
国鉄分割民営化(JR発足)の約半年前にあたる1986年10月に定期貨物列車の設定を失った阪和貨物線でありましたが、貨物列車以外にも団体専用列車とか、民営化後の1989年7月22日に天王寺駅構内に於ける大和路線(関西本線)と阪和線を結ぶ短絡線が開通する以前に京都や名古屋から奈良を経由して和歌山方面に向けて設定された臨時特急列車(「しらはま」など)なども運転されていました。
晩年には錆取り目的で1日1往復設定されている回送列車(いわゆる”錆取り列車”)などごく少数が運転されるのみとなっていましたが、おおさか東線建設の支障になる等として、2004年6月末を以て休止扱いとされ、大和路線との分岐箇所(「加美~久宝寺」間に存在)に於ける渡り線などが撤去されました。
その後、2008年3月15日に城東貨物線・南線(放出~久宝寺)が旅客化(つまりおおさか東線が開業)するも、阪和貨物線の線路が再び大和路線の線路と接続されることは無く、約2年前にあたる2009年3月31日を以て正式に廃線。
なお、休止扱いとされ大和路線と分断された後も、踏切箇所に於いて道路方向に柵がたてられたものの、架線や信号機はそのままにされ、つい最近まで国道25号線と交差する鉄橋に於いてもその真上に架線の姿を見ることが出来ていました。
しかし、さすがに廃線ともなれば線路などの地上設備一切を撤去しなければならないみたいで、去る3月20日に見た、廃止から約1年経過した鉄橋の上に架線の姿はありませんでした。
こうした姿を目の当たりにした私自身、ふとある言葉が頭の中をよぎりました。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
お馴染み、松尾芭蕉が彼自身の紀行文集「おくのほそ道」の中で詠んだ一句───尤もここは古戦場ではないため、この句が詠まれた当時とシチュエーションは全く違いますが、この鉄橋などを通る阪和貨物線が栄えていた頃のことを考えると、何だか切なさを禁じ得ないところがあります。
阪和貨物線は朝鮮戦争まっただ中の1952年9月1日に単線電化にて開通、現在の大和路線・久宝寺駅あたりに存在していた竜華操車場と、現在の紀勢本線・宮前駅付近に存在していた和歌山操車場との間を結ぶ貨物列車などが多数、この大和路線と阪和線を直接結ぶ短絡線を行き交っていたと聞きます。
貨物列車と共に、少数ながらこの短絡線を経由する旅客列車も設定されていたこともあり、先に記した内容とダブってしまいますが、1965年3月から1967年9月までの2年半運転されていた特急「あすか」〔名古屋~奈良~和歌山(設定当時は「東和歌山」)〕や、JR発足の翌年・1988年3月から1989年3月までの約1年間運転されていた特急「しらはま」(京都~奈良~白浜)などが駆け抜けていました。
この阪和貨物線に関しては、大和路線と阪和線との各分岐点に於ける配線形態から、同線を経由することにより奈良方面から和歌山・関西空港方面に向けて方向転換(スイッチバック)すること無く運転することが可能であり、このことを踏まえて、一時期、奈良・加茂からの「関空快速」を頭の中で構想していたこともありました。
奈良駅前(近鉄&JR)からも関西国際空港に向けてのリムジンバスが設定されており、このことから一定の需要が見込めると勝手に考えていた私は大阪側電化区間(つまり大和路線区間)の東端である加茂と関西空港を結ぶ「関空快速」を思いつき、1時間あたり1本の割合で2~4両編成程度の短めの編成(221系または223系)にて設定、停車駅パターンとしては「加茂~久宝寺」間と「堺市~関西空港」間の両快速停車駅を足し合わせるか、これより若干停車駅数を絞り込む・・・というふうに。
私自身、今は無きこの阪和貨物線に対して今も一定の思い入れを抱いているところであり、また改めてその功績を偲んでみようと思っています。
さて、阪和貨物線のことで長くなってしまいましたが、この阪和貨物線鉄橋との交差地点から更に国道25号線を西に進み、やがて杭全交差点、更にボウリング場(くまたボウル)を通過して天王寺駅に近づいたところで、もう一つ目の保養となったものと出会いました。
昨年12月にデビューし、今年のJRグループ定例ダイヤ改正の施行に伴って本格運用に移行した225系近郊形電車です。
コーナン店舗の手前に見える阪和線鉄橋をくぐり抜けたあたりで、高架の阪和線と地上の大和路線を直接結ぶ短絡線・下り線(阪和線→大和路線)を下っていくステンレス車体の列車が目に飛び込んできました。
その車体を眺めているうち、車体側面の窓配置に何かピンとくるような感覚が───昨年初夏からこのブログでも追っかけていた”アノ車両”の窓配置とそっくりに見える・・・
そのうち、先頭車両同士の連結面が出現───やはり225系でした!
左上4分の1の部分だけでしたが、何とか225系特有の前面形状を初めて拝むことが出来ました《ちなみに225系に続いて連結されていたのは、223系電車でした》。
今までネット上にアップされた写真画像や動画を通じてしか見ることが無かっただけに、目を惹くところとなりました。
尤も音まではよく聞き取れなかったけれども・・・
朽ちてしまった阪和貨物線に、これからの活躍が期待される225系電車───国道25号線を通して陰と陽の両面を目の当たりにした気分でした。
変な言い方になりますが、旧国鉄そしてJRの「栄枯盛衰」を見た思いがした、ということですね。
改めて、阪和貨物線の足跡を偲ぶと共に、225系電車の今後の活躍を期待しています。
<(_ _)> ありがとうございます。応援よろしくお願いします <(_ _)>
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